父親は、白人医師の執事で、ときおりホワイトハウスにも出入りしていたこともあり、裕福な家庭で生まれ育っています。小学生の頃よりピアノを習い、ハイスクール時代はパーティなどでピアノを弾くかたわら、作曲や音楽理論も勉強しました。
1916年にデビュー後、ニューヨークに進出。1927年にハーレムにある「コットン・クラブ」と専属契約を結び、自身のバンドとともに5年間、このクラブに出演しつづけたことが、後のエリントンの音楽性と名声を決定づけました。ギャングが経営する白人向けの高級クラブの「コットンクラブ」。この店の名物は、黒人のダンサーが身体中にグリースを塗り、身体をくねらせながら踊るジャングルショーでした。エリントンはこのダンスショーを彩るエキゾチックな「ジャングル・サウンド」を作りだし、一躍脚光を浴びました。
1974年5月24日に亡くなるまで、ピアニスト、バンドリーダー、作曲家として精力的な活動をしたエリントン。《Cジャムブルース》《黒と褐色のファンタジー~》《ムードインディゴ》《スイングしなければ意味がない》などの有名曲を含め、エリントンが生涯に作曲した曲は1000を超えるとも言われています。チャールス・ミンガス、セロニアス・モンク、そしてマイルス・デイヴィスほか、ほとんどすべてのジャズマンが彼を崇拝し、影響を受けています。現在でも彼に私淑するジャズマンは後を絶ちません。彼の存在はジャズを超えて、20世紀のアメリカのポピュラー音楽そのものと言っても過言ではないでしょう。
彼の有名な言葉に“There are only two kinds of music. They are good or bad.”
「音楽は2種類しかない。良い音楽と悪い音楽だけだ」があります。
今回の特集は、エリントンを尊敬してやまないピアニスト、マーカス・ロバーツ氏のインタビューも取り入れながらエリントン・ミュージックの魅力を紹介してゆきたいと思います。
多くのミュージシャンが
デュークを崇拝していて、
スティーヴィ・ワンダーの「サー・デューク」は
デュークに捧げられたものであることは有名。
それにイタリア・クラシックの巨匠、
アルトゥーロ・トスカニーニも
デュークのファンだったと聞いたことがあります。
「ジャズの名曲なし、名演あるのみ」と言いますが、
デュークは真の作曲家であり、
巨匠が自作自演する姿を
見せてくれた偉大な人です。
マイルス・デイビスはただのトランペッターではなく、
バンドそのものがマイルスの音なわけですが、
それもデュークから学んだことです。
おっとぉ、デュークの音楽について触れるには、
ビリー・ストレイホーンのことも
知らないと駄目ですね!